◆NHKテレビ小説朝ドラ「あさが来た」 2015年9月28日(月)スタート
❖広岡 浅子とは?
1849年10月18日(嘉永2年9月3日)~1919年(大正8年)1月14日)は、
日本の実業家、教育者、社会運動家。

ペンネームは九転十起生(きゅうてんじっきせい)。
明治を代表する女性実業家であり、豪気・英明な天性から「一代の女傑」と称えられました。

【生い立ち】
山城国京都(現・京都府京都市)・油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女として
生まれる。

幼名は照といい、幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など
学問に強い興味を持つが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を
禁じられていました。

17歳で鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった第8代加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と
結婚。
嫁いだ後も、主人は手代に任せて業務に関与しない商家の風習に疑問と限界を感じ、
簿記や算術などを独学するようになりました。

20歳で明治維新の動乱を迎え、家運の傾いた加島屋を救うために実業界に身を投じ、
加島屋当主である第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、夫の広岡信五郎と共に、
加島屋の立て直しに奔走しました。

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広岡浅子は女子大創立者だったの?姉や子孫はいたの?

 

【日本女子大学校の設立に尽力】
1896年(明治29年)、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、
成瀬の著書である『女子教育論』を手渡されました。

幼い頃に学問を禁じられた体験を持つ浅子は、『女子教育論』で成瀬の説く女子高等教育機関設立の
考えに大いに共鳴し、金銭の寄付のみならず、成瀬と行動を共にして政財界の有力者に協力を
呼びかけるなど、強力な援助者となったのです。

また広岡家はもとより、実家の三井家一門にも働きかけ、三井家から目白台の土地を寄付させるに
至り、1901年(明治34年)の日本女子大学校(現・ 日本女子大学)設立に導きました。

◆浅子の子供は?
広岡浅子さんには、実は広岡亀子さんという一人娘がいます。
広岡亀子さんは一人娘なので、唯一の広岡浅子さんの子孫ということになりますね。

広岡亀子さんは、播磨小野藩主の次男の一柳恵三を婿に取ります。
この恵三が広岡家の後継ぎになります。
そして、この恵三は、大同生命の社長になるのです。

その後も恵三の息子である喜一も、大同生命の取締役を勤めています。
さらに亀子には腹違いの弟に松三郎がいました。
こちらも大同生命の社長を務めています。
大同生命も松三郎以降には広岡家の手から離れています。

◆浅子の姉は?
三井春さんは、実は三井浅子(広岡浅子)さんの異母姉で、浅子さんが加島屋の広岡信五郎のところに
嫁いだ時と同じ時期に、大眉五兵衛(おおまゆごへえ)のところに嫁いでいます。
嫁ぎ先は、大阪の今橋天王寺屋、大阪で最も老舗の大きく有名な両替商です。

江戸時代に手形の制度を創出し、信用機構の確立に貢献しており、「天下の台所」と呼ばれた
大坂金融市場のシンボル的存在であった両替商です。
大眉春(三井春)さんは、明治の歴史から沈みゆく今橋天王寺屋の主、大眉五兵衛を支え続けた
古き良き日本のやまとなでしこ。やまとなでしこという言葉がぴったりの女性です。

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